Cityかまがや102号インタビュー

第31代 元 立行司 木村庄之助さん 「辛抱」が原点

ぷろふぃーる  本名阿部正夫 昭和15年北海道美瑛町出身。立浪部屋所属。昭和30年5月初土俵、60年1月幕内格となり、平成13年から1年半第32代式守伊之助、さらに2年と4場所木村庄之助を名乗り、平成17年11月場所にて引退。鎌ケ谷市道野辺本町在住。

■ 行司さんが土俵下へ ■
―今年1月11日の把瑠都戦で、若荒雄関の体が当たり木村庄三郎さんが土俵から落ちて、脳震とうをおこし救急車で運ばれましたが。
 テレビで見てました。勝ち名乗りは次の人がやりました。俊敏に動かないといけませんね。あのあと彼に会いましたけど、そのときのことは覚えていないそうです。  相撲の流れをよく見ながら、機敏に動き回るべきなのですが、私も土俵の角に追い詰められてしまったことが一度だけあります。格好悪いけど自分のほうから下へ降りてしまいました。
―すばらしい行司装束ですが、引退後はどうされました?
 全部後輩にあげてしまいましたので、一枚も残していないのですが、でも写真をとってあります。
―着付けも大変ですね。
 お付きの人が、2、3人付きますからあっという間に終わってしまいます。
―立行司の持つ短刀は代々受け継がれるものですか?
 いいえ。自分で買ったものもあれば、師匠の息子さんや、応援してくださった方にいただいたものもあります。本場所用巡業用と使い分けたりしていました。これらは今でも自分で持っています。
■ 師匠伊之助さんのこと ■
―ひげで有名な伊之助さんの最後の弟子ということですが。

 相撲が大好きで、巡業にくる一行を駅前に見に行って、「旅館はどういったらいいの」ときかれて案内したのが、出会いのきっかけです。その後あまりのうれしさにファンレターの様なお礼状を書いたら、返事をくれたんで、またお礼状を書いて・・って具合に。14歳中学2年で伊之助師匠の内弟子になりました。翌年中学を卒業して30年春初土俵を踏みました。
―ほかに内弟子はいたのですか?
 先輩がひとりいただけです。奥さんが作ってくれたお弁当をもって毎日学校へ通って。将来どうなるなんてあまり考えていなかったですね。よくしてもらっていたので、師匠についていれば大丈夫だという気持ちでした。また部屋は違っても同期は10人、翌年度は10人と結構仲間がたくさんいたので、つらくても頑張れました。
―最後まで全うした人は?
 3分の一くらいですかね。当時は、定員も給料も、定年もない時代でした。  私14歳師匠68歳、孫と間違われたことも。ひげを洗う日は銭湯に行くんですよ。石鹸箱に生卵入れて。で、今で言うリンスですねえ。白味を手につけてひげに塗るんですが、ぬるぬるで気持ち悪くてねえ。おまけに黄味は精が付くからお前飲めと、石鹸箱ですからちょっと抵抗ありましたよ。
■ 行司の仕事は何でも屋 ■
―昔と今で違う点は。
 昭和32年ごろですかね。行司と相撲取りが同じ部屋にいるのはおかしいということになりまして、内弟子制度もなくなり、行司だけの独立した部屋ができました。まあ寮みたいなものです。  ところが、行司は軍配をさばくだけでなく、事務的仕事もするので、部屋付きでないと不便だということになって、15年くらいしたらまた元通り部屋所属になりました。ですから今は各部屋に入門し、若いうちは若いお相撲さんと一緒に寝泊りしています。  十両以上は月給制、65歳定年で、中卒〜18歳までに入門となっています。定員45名です。 昔は部屋数が少なくて相撲取りは一部屋100人位いました。今は力士数約650人。部屋数約50。一部屋の人数は10人足らず〜30人位。行司がいない部屋もあります。
―行司さんの所作は誰が教える?
 担当の行司3人が所作を教え、土俵姿を見て、指導していきます。
―行司さんの事務的仕事というと。
 相撲に関すること何でもやります。巡業の手配、乗り物の手配、土俵の安全を願っての祝詞を上げるなどの神事、土俵入りの先導、放送係は「決まり手は○○でした」などという館内放送も。番付表を書くだけでなく、今日の取り組みの勝敗や明日の取り組みを巻紙に書くのも行司の仕事。軍配を上げるだけでなくその他も忙しいんですよ。
―人生を振り返って思うことは。
 何もわからぬ子どもでしたが、今思うとなにも固まっていなかったからこそ、師匠のいうことも聞けたのでしょう。躾は大事ですよね。一度言われたら同じことでおこられないよう、覚える努力をしました。着物のたたみ方、掃除洗濯、毎日おこられていましたよ。覚えなくては損をすると思うから真剣でした。苦労ではなく、いい経験でした。  今は親方も優しいから、根性がない。もっとも厳しくすれば逃げ出しますから難しい。相撲も実力伯仲で見ごたえのある熱戦がなくなりましたね。あっけなく勝敗が付いてしまうのでは面白くないです。

*  *  *  Cityかまがや2号でインタビューした頃は「木村庄三郎」を名乗っており47歳。あれから26年。行司世界の最高頂点を極め、退職した。髪が白髪になったくらいで変わらず、激しい世界にいらしたとは思えないほどの静かな落ち着きを感じさせる人である。  色紙にはいつも〔道以一貫=一つを以って道を貫く〕と書いてきた。まさにひとつの道を貫き通した。その原点になったのは師匠の言葉「辛抱」。今の日本に何より大切な言葉かもしれない。  巡業や海外興業等、行く先々の地名、旅館、日付をずっと記録していたほどの几帳面な性格。だが「いまだ自分のやりたいことが見つかっていないんです」と。次の道を模索中・・・。