Cityかまがや105号  小金中野牧と縄文人22

 江戸幕府八代将軍、徳川吉宗が鎌ケ谷市域を訪れていた…。  これって本当のこと?  答えは、YES! 少なくとも史料のうえでは、事実なのである。 吉宗は、享保十年(一七二五)、将軍家としては初となる、小金中野牧における鹿(しし)狩(がり)を挙行した。
 その時、現在の西佐津間〜初富、ランドマークとしては鎌ケ谷西高校周辺一帯にその姿を現していることが、『御狩日記』(国立公文書館蔵)の中に記されている。  言うまでもなく、そこは中野牧のど真ん中であった。
 吉宗が将軍位に就いたのは、享保元年(一七一六)、曾祖父である家康の死去から百年後にあたる。 この間、島原の乱(一六三七) や由井正雪の乱(一六五一)など小さな事件があったが、幕藩体制を揺るがすようなことはなく、安定した平穏な時代を迎えていた。
 そこで、幕府は政治の方向を武断主義から文治主義へと変更した。  すなわち、軍事政権の憲法ともいうべき武家諸法度の第一条を、次のとおり改正したのである。
・旧「一 文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」(一六一五)
・新「一 文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」(一六八三)
 これにより、武芸より学問が重視され、馬にも乗れぬ腰抜け侍?の方が幅を利かす風潮となった。  さらに、五代将軍綱吉の代名詞ともいえる「生類憐みの令」は、将軍家への信頼を失墜させただけでなく、幕府直轄の牧の経営にも大きな打撃を与えたのである。
 それは、鹿、猪などが牧内で大繁殖し農作物被害が増大したことに加え、野馬の管理育成にも影響が出るようになったことである。  このような状況の中、吉宗は、将軍の権威を遍く大名から庶民に至るまで知らしめ、緩んだ士風を直す軍事訓練として、また、農耕害獣を駆除するという名分で、小金牧で鹿狩を行なったのである。
 『徳川実記』では「御家人等太平に慣れて武芸にをこたらむ事をなげかせ給ひ、ひたすら講武の事を沙汰せられける」と記している。(鉄人28号記)