Cityかまがや106号『小金中野牧と縄文人』23    絵・サリーちゃん 文・鉄人28号

 今号では、八代将軍徳川吉宗が享保十年(一七二五)三月二十七日に行なった鹿(しし)狩(がり)当日の動きを、『御狩日記』により追ってみる。
 この日の天気は快晴。午前二時、輿に乗って江戸城を出立した吉宗は、両国橋詰から召船を使い午前四時、小菅に上陸した。
 ここからは「亘(わたり)」という栗毛の馬に乗り、江戸川に船を並べて臨時に架けた船橋を渡った。
 午前六時、松戸で小休し、朝食をとった。お供の者たちには炊出しの赤飯が供された。
 午前八時、中野牧内に設けられた御立場に到着した吉宗は、そのまま佐津間山のあたりまで出かけて地勢を巡検したところ、予想以上に鹿などが多数いたため、すぐさま御狩りを始めた、とある。
 さて、朝食をとった場所は現在の千葉大学園芸学部旧正門脇と推定されている。お立場は昭和15年の松戸飛行場建設に伴い破壊されたが、設置場所であった五香西の公園内に石碑が建っている。
 注目すべきは鹿狩直前にとった吉宗の行動と行先である。
 彼はこの鹿狩を軍事訓練と位置付けていたことは、前号で触れた。
 そこで総司令官として演習地(戦場)の状況を事前に把握する必要から、「佐津間山」まで出張ったものと思われるのである。  また、「佐津間山」という表記は、寛政あるいは嘉永の鹿狩の様子を描いた絵図にも出てくる。  その範囲が、鎌ケ谷西高校周辺を中心とする一帯なのである。
 お立場からは約1.5q、馬で10分駆ければ往復できる距離である。
 吉宗一行は、おそらく小金道(現国道464号線)を通って市域を訪れたのではないか、と思われる。
 ところで、この日の吉宗の装束は菖蒲皮のくくり袴、黒びろうどの脚絆、花色小紋をあしらった木綿の袷、毛の長さ三,四寸の紺びろうどの羽織、網代の綾藺笠、腰には白い采幣という出立であった。
 復路は再び騎馬にて江戸川を仮設の船橋で渡り、千住から船に乗り換え、午後四時頃帰城した。
 鹿狩の詳細結果は次号以下で。