Cityかまがや107号

小金中野牧と縄文人」24    文・鉄人28号

 前号では、徳川幕府八代将軍吉宗の、中野牧での鹿(しし)狩(がり)当日における行動を、時系列的に追ってみた。

 ところで、この鹿狩挙行はその年の正月の末に決定され、小納戸役松下専助以下3名が担当者として御鹿狩御用頭取に任命された。
 準備期間は、わずか2カ月弱というあわただしさである。
 当然ながら鹿狩の決行日は、将軍の安全に係るトップシークレットである。そのため、公式発表されたのは、準備期限ぎりぎりの三月二十一日であったという。

 このような状況の中、現地(小金牧)における準備は松下専助の意を受け、金ケ作陣屋の代官小宮山杢之進、または野馬奉行綿貫と、彼らの支配下の牧士たちが、各村々の名主たちを指揮し、多くの農民を使役しておこなわれた。
 まず、中野牧内の野馬を保護するため、隣接する下野牧へ一時、移動させる必要があった。

 次に将軍の指揮所となる、お立場の構築などがあった。
 お立場の所在地は前号で紹介したが、新規に芝草で築立て、その規模は高さが約6メートル、頂上の広さは3畳ほどで高欄を立て、四方に楷を設けてあった。
 御座所にはお立場の印として、白地に朱の御紋を出した吹貫が一本立てられたという。

 さらに、鹿や猪を中野牧の狩場へと追い込み易くするため、水田や堀などに仮橋を設置したり、既存の野馬除土手を切り崩す、あるいは新しく築いたりした。

 また、追い込み作業を効率的にするため、勢子の寄場、留り場の目印として木杭を規定位置に打ち込んだ。この杭は、逆井村・高柳村・粟野村・中沢村・道野辺村にわたり、一番から九八番まで100間に一本ずつ98本が設置された。
 これがお立場を中心とした、周囲がおよそ17キロメートルの輪となるのであった。 そして、鹿狩の3日前から農民勢子による鹿・猪の、この輪の中への追い込みが行われるのである。

 追い込み方法と動員された人数等については以下次号で。