Cityかまがや108号

小金中野牧と縄文人』25      絵・サリーちゃん 文・鉄人28号  

 享保十年(一七二五)の鹿(しし)狩(がり)は、当初予定では、翌年のための予行演習であった。そのため、中野牧内だけを対象として実施しようというのが幕閣の意向だった。
 ところが、上野牧、高田台牧の経営者である野馬奉行綿貫氏は、小金牧全域を対象とした鹿・猪の追い出しを進言した。
 それだけ、牧内に大繁殖していた鹿・猪や鳥類による農作物への被害が甚大で、なおかつ、村々から窮状を訴える深刻な声が、頻繁に届いていたのであった。
 幕府側も牧周辺から農民を大量動員する手前、名分が必要だったこともあり、綿貫氏の進言を採用することとなったのである。
 こうして、鹿狩の3日前になると北西は利根川の端から上野牧・高田台牧(野田市・柏市・流山市)方面、南東は印西牧・下野牧(印西市・白井市・千葉市・船橋市)方面から中野牧のお立場を目指し、七手に分かれて追い出し始めた。
 この内払いには、小金牧周辺の村々から、追込み勢子人足として約5千人が動員された。
 対象は、一五才以上六十才未満の元気な農民で、各人長さ二間の竹一本と三尺の縄、二泊三日分の弁当と蝋燭を持って定められた人足寄場へ集められた。
 さて、鹿・猪は追込み勢子人足によって逆井村〜中沢村、大町新田、日暮村、紙敷村に設けられた各寄場に向かって追い立てられた。
 寄場は七の手で構成され、下総、武蔵国の三〇七か村から動員された一万四四一人が、立切勢子人足として鹿狩の前日から待機した。
 この立切勢子人足一万人余りが両手を広げると、前号で触れた演習が17キロメートルの輪となるのであった。この輪の中に鹿・猪が集められ、翌朝になるとこの輪は徐々に狭まっていくのである。
 ことに、粟野村に集められた勢子人足には五〇〇枚の戸板が持たせられ、鹿・猪の逃亡に備えた。
 まさに、人襖の体といえよう。
 このようにして、広大な牧内からお立場の直下に張られた網の中へ、獲物が追い込まれたのである