Cityかまがや109号

 『小金中野牧と縄文人』26
絵・サリーちゃん 文・鉄人28号


前号では、鹿しし狩がりの獲物となった鹿・猪を、広大な牧内から中野牧のお立場直下の御狩場へ追い込むまでについて触れてみた。

 さて、「抑鹿狩は遊興のためにあらず、武備を習わす…」ことから、江戸では本丸、二の丸詰めの書院番、小姓組番といった将軍の親衛隊(旗本)から「追懸騎馬」・「騎馬鑓」を募集した。
 特に、「騎馬鑓」は馬上から鹿等を突留する、鹿狩の花形であることから、馬術に自信のある旗本たちの大多数が希望した。  そこで田安門脇の広場に希望者を集め、二度ずつ駆けさせ、馬上での鑓使いの手練を検分して人選するという騒ぎとなった。  鹿狩当日の吉宗の動きは前々号で紹介したが、旗本たち騎馬勢子五〇〇騎等は、前日の午前10時から午後1時の間に江戸を出立した。
 そして、中野牧内で一夜を明かし将軍の到着を待っていた。  このようにして準備が万端整い、午前八時になると、ほら貝を合図に鹿狩が開始されたのである。
 その様子が「御鹿狩御用頭取」の一人である佐野伊右衛門の日記に残されている。以下要約する。  「頭取は各牧士等を指揮して鹿を御狩場前へ追い入れた。夥しい数の鹿が現れ、騎馬鑓組は入り乱れて突留した。追懸騎馬の面々も初めは只管馬上で鹿を追っていたが、余りに多くの鹿が出現したのでこれも鑓を取って突留した」。
 鑓付けた(仕留めた)鹿には銘々称号札を付けて自らの獲物の印とした。だが、既に倒れていた鹿に鑓付けしても、称号札を付けることは許されなかった
 騎射の面々も笠懸・流鏑馬の術にて鹿を射留めるなどし、日頃の稽古の腕を披露した。鑓の衆と相交り誠に奇代の見物であった。
 将軍吉宗は、当初馬上で采配を振って駆引きの下知をしていたが、そのうち自らの御鑓にて鹿共を御留めした。いずれも一鑓にて仕留められた。」
 結局、当日の獲物として猪5・狼1・雉10・鹿826が捕えられたと「御狩日記」に記されている。