Cityかまがや111号

 『小金中野牧と縄文人』28              絵・サリーちゃん 文・鉄人28号

 前々号(№109)を編集部から頂いた折り、苦言というか、アドバイス?を受けた。  それは、「内容が難解、漢字の読み方が分からない。視覚障がいをお持ちの方々への情報提供の際、極めて不都合、何か工夫は出来ないか」というものであった。
 ここで、STAP細胞論文問題が、ふと、頭の片隅に浮かんだ。  それは、論文における資料(データ)の取扱い方の一件である。 何故浮かぶのか、という疑問は当然冒頭の苦言と関連する。

 本欄は歴史に触れての随筆ではあるが、関係する史・資料の使用を抜きにしては綴れないのである。そして課題はその取扱い方にある。  基本は、原典に拠ることである。古(こ)文(もん)書(じょ)の場合、写真画像で明示したうえ、読み下し文を作成し、史料を資料化する。  この過程において、「解釈」という第三者の意図が加わることになるが、出来るだけ解釈の入り込む余地を狭める方が、研究上望ましいことは言うまでもない。   もちろん、拙稿は学術論文ではない。このような煩雑な手続きを踏んでいたら、数十倍のスペースを要することとなる
 しかし、①第三者が「解釈」した資料を引用または参考にする場合、著者及び文献名、刊行年に加え引用・参考箇所を詳細に明記する。②出所(真贋)不明の史・資料は使用しない。③「孫引き」は極力控える。という「常識」を携えて本欄に臨んでいる自負はある。  さて、小保方論文では、①不適切なコピペによる記述や②真正でない画像データの提示(再利用・転用)及び改ざんが、大きな問題点として指摘・糾弾されている。  まさに「常識」外れのお仕事、と思うのは私だけであろうか。

 原典至上主義という「常識」に拘泥するあまり、必然として難解な原稿となり、関係各位に多大なご迷惑をかけている、という自覚もないわけではないのです。  だが、その解決策は?となると、「社会常識」を欠いた我がお頭(つむ)では、何も出て来ない…。