Cityかまがや112号

小金中野牧と縄文人』29       絵・サリーちゃん 文・鉄人28号  


前々号(№110)の本欄で、サリーちゃんから「鹿肉をみんなで食べたら」という提案があった。 「好き・嫌い」は各人の判断に委ねるしかないが、鹿や猪の肉は牛・豚に比べると脂肪が少ないため、ヘルシーではあるが旨味成分に欠ける、というのが通説らしい。  もし、これまで万人が非常に美味いと評価していたら、鹿・猪とも乱獲され、今頃は絶滅危惧種に指定されていたかもしれない。

 さて、二度にわたる吉宗の鹿狩から七〇年後の寛政七年(一七九五)、彼の曾孫に当たる十一代将軍家斉が、中野牧で鹿狩りを行った。  約半世紀にわたり将軍位に就き、後には大御所として名実ともに政治の実権を握った家斉は、このとき二十三才、曾祖父の吉宗に強い憧れを抱いていたといわれる。  そこで故事に倣い、武家の棟梁として曾祖父を凌ぐ大掛かりな軍事教練を実施しようとした。

 総責任者は、勘定奉行兼関東郡代の久世丹後守広民(くぜたんごのかみひろたみ)三五〇〇石。  この寛政の鹿狩は、家斉の将軍宣下後ほどなく計画され、数年かけて準備されたようである。

 前年の寛政六年になると幕府役人が小金牧周辺の村々へ赴き、鹿狩に関連した触書を次々と廻状として出している。たとえば、
・七月「来春には御鹿狩が予定されているのでそれまでの間、猪・鹿の生息範囲である森林の下草刈りを行ってはならないこと」
・九月「村高及び一五才から六〇才迄の人数を村ごとに書き出し、宿泊所まで差し出すこと」
・十月には千住から中野牧入口の五助木戸(現五香十字路)及び亀戸から市川村経由陣ケ前までの道や橋の普請が廻状された。
・十一月には六方野(ろっぽうの・現千葉市域)近くに囲いを設け、中野牧と下野牧の野馬を、葛飾郡・印旛郡・相馬郡・千葉郡内の273か村から人足5千人を動員し、3日掛かりで追い込んだ。
 また、獲物の追込み方や当日の陣容も享保期を上回る規模となった。その理由や内容は、次号で。