Cityかまがや113号 小金中野牧と縄文人30

絵・サリーちゃん 文・鉄人28号

 吉宗の2回にわたる享保の鹿狩の結果、小金牧内の鹿・猪類は大幅に減少し、農耕害獣の駆除という面で大きな効果があった。
 前号でも触れたが、家斉による寛政の鹿狩は獲物を確実に確保する必要から、前回を大きく上回る準備と規模を要することとなった。  「追方手続規定大意」という史料によると、追い出し範囲が小金牧内にとどまらず、牧外も含め格段に拡大したことが分かる。

 当初は、常陸国筑波郡辺りから追い出す手筈であったが、利根川が障壁となったためこれを北限とし、東は下総銚子、南は上総大多喜辺りを追い出しの起点とした。
 次に追い詰め方と速度であるが、起点のA村を追い出す時はA村民全員が参加し、2番目のB村にかけてはA・B村民が一緒になる。3番目のC村に移った時にはB・C村民が一緒になり、A村民は加わらなくても良い、としている。
 この際、獲物が驚いて逆走しないよう、待ち受ける村は鳴りを潜めること、速度は、一日につき二里(8㎞)を目安とすること。
 最も肝心なことは全員が足並みを良く揃え、踏み止まる時は川や沼などの自然障害物を利用すること、夜間は篝火を焚き、声を上げ交代で食事・仮眠をとり、貴重な獲物が逃げ出さないよう、休むことなく中野牧まで追い込むこと、幾日幾夜かかってもこの手続きを破ってはならない、とある。  また、村域も追い出し範囲に含まれたことで野馬除土手が邪魔になり、各所で土手の切り崩し、堀の埋め立て普請が行われた(当然ながら鹿狩終了後は復旧した)。

 このようにして、銚子方面からは佐倉城下、大多喜方面からは下野牧南端部を目標地点と定め、鹿狩の三日前までに追い詰め、ここからさらに包囲網を狭めていった。  最も遠い銚子から鎌ケ谷までは約80㎞あるので、獲物の追込みには十日間を要したことになる。
 この追い出しには、武蔵・安房・上総・下総・常陸の五か国から、約十万余人の百姓が追込勢子人足として動員された。以下次号。