Cityかまがや114号

『小金中野牧と縄文人』31        絵・サリーちゃん 文・鉄人28号

 十一代将軍家斉による寛政の鹿狩では、下総ほか五か国から、約十万余人の百姓が動員された。
 この勢子は七手に分けられ、代官や勘定組頭、見習を含む牧士等二五一名が指揮することとなった。
 これらの各手には、牧周辺の地理に詳しい村々の名主などから二〇人の世話役が任命、配属された。
 市域では佐津間村の名主重右衛門が世話役を仰せ付けられたことに対し、「冥加至極有難き幸せ」と請け証文を郡役所に提出している。
 また、将軍の下知を受ける書院番・大番など一万五千人は、前々日から各々中野牧に参集した。
 この旗本衆のために、棟数34、建坪4千95坪の小屋場、馬繋場315か所、車井戸8か所、雪隠150か所が新たに造築された。
 だが、これだけ大掛かりな挙行体制とは反比例するかの如く、獲物は鹿130、猪6、狐4、貉2、雉2、兎6という貧果?であった。
 鹿の捕獲数でみると、70年前の吉宗の時より9割減となった。

 ところで『小金御狩記』(著者不明)には市域の様子が記されている。孫引きであるが紹介したい。

 「小金原名所の儀御立場より辰巳に当り、道野辺との地名にて小松原有り。~中略~人家などは一向之無く、緑の芝生麗しく、足ふむ下には土筆、つばな、すみれ、たんぽぽ、わらび、ぜんまいなど生出で、小松の影に鹿など遊び、さえずるひばりは霞に入り、富士筑波も原の内有之など、風景暮るるをわすれ、右の方は右京塚という古塚三つ並べり。~中略~松杉の森の内に石室有之、中に七面大明神安置す。また左の方は巌くつにして木の根に伝わり下り候えば、古泉あり。清水平和に流れ、池の名をはやし水と唱え、泉の辺りに人集まりて手を打ち、声をはつし囃子候はば、水中俄かに鳴動し、拍子につれて水二尺余りも吹上がり、誠に奇代の霊地なり。」

 道野辺村が風趣豊かな名所として、流麗な筆致で描写されている。
 崋山の四州真景図「釜原」と並び、往時の市域の原風景の素晴らしさを今に伝える好史料である。