Cityかまがや115号  

小金中野牧と縄文人』32    絵・サリーちゃん 文・鉄人28号  


 江戸幕府滅亡も目前に迫った嘉永二年(一八四九)、一二代将軍家慶は傾きかけた将軍家の威信を誇示するかの如く、鹿狩を実施した。
 所謂嘉永の鹿狩であるが、過去3回の鹿狩に比べると、より時代が新しいこともあり、幕府や村側の公文書に加え、見物客の日記など多くの史料が残されている。
 村方史料の中に、佐津間村域の野馬土手に関する記述がある。  獲物を追い込む際、障壁となる野馬除土手を切り崩し堀を埋め立て、鹿狩後には復旧するのであるが、その場所や作業手順、土手・堀の高さや深さが記されている。  普請箇所が確認・特定できれば牧の範囲を知る上でも興味深い。

 また、見物客の記録のうち、将軍一行が到着した時、勢子人足達の様子を記述した部分を紹介する。  『門前にひかいたる12万6千人の百姓勢子共、口々にあれが公方様よ、これが田安様よ、どれが公方様だなぞと大声に云いあいて、不礼いわんかたなけれども、一向制する人もなし。すでに公方様木戸をお入りあそばさせる時、門前百姓ども、一にんがあれこそ公方様よ、イョ親玉と云い出しければ、百姓どもみな一同に大声に、イョ親玉アーという声、しばらくやまず、ヨアーとはやすこえ、天地にひびくばかりなり』とある。  天下の将軍を「親玉」呼ばわりするなど、いかになんでも徳川家の威厳も地に落ちた感がする。

 ところで、嘉永の鹿狩については、これまでのような獲物の数についての子細な記録がない。  代わりに、取溜之数(とりためのかず)という記載がある。  「取溜」とは、予め捕らえて溜めておいた、という意味である。  幕末になると牧の範囲は当初よりかなり縮小し、これまでの鹿狩の成果もあり、以前より多数の勢子を動員して追い立てても、野生動物である鹿・猪類を確保することはもはや困難な状況であった。  そこで、関東各地から事前に鹿・猪を生け捕りにして集め、鹿狩直前に狩場へ放ったのである。
 取溜の詳細については次号で。