季刊タウン情報誌 Cityかまがや116号

『小金中野牧と縄文人』33         絵・サリーちゃん 文・鉄人28号  

 一二代将軍家慶による嘉永の鹿狩(一八四九)は、衰退に向かう徳川将軍家最後の鹿狩であった。  この頃になると、小金牧を含めた広範囲において、野生動物は極めて減少していた(と思われる)。

 12万6千人もの百姓勢子を動員しても、当地はすでに、狩りに必要となる鹿や猪が生息できない環境となっていたのである。  このままでは鹿狩そのものが成り立たず、多くの関係者が切腹を仰せ付けられること明白である。
 そこで、幕府の担当者は、鹿や猪を予め生け捕りし、溜めておく「取溜」という手段を用い、この難局を乗り切ったのである。  特に、代官の部下たちは、関東各地の山間の村落を巡廻し、鹿猪等を買い入れたのである。
 
 このようにして放った獲物と捕獲した獲物の種類と数を列記する。  鹿は25頭を放ち、捕獲されたものは29頭であった。4頭は現地に生息していた分と思われる。  一方、猪は134頭放ったが、122頭しか捕獲できなかった。 12頭も取逃がしたことになる。  同様に、狸は10匹のうち5匹、 雉は3羽のところ2羽を獲物としたと「下総国於小金原御鹿狩御次第荒増書抜」に記されている。

 さて、この取溜については、大変興味深い後日談が残されている。  5年後の嘉永七年四月、常陸国鹿田村(現茨城県鉾田市)の住人茂兵衛は、同国清水村(現稲敷市)の善兵衛に対し、「鹿狩用猪手付金返済につき一札」を提出している。
 それによると、善兵衛は幕府から生きた猪の捕獲を請け負ったが困難と考え、茂兵衛の父親に依頼し、手付金として二両渡した。  しかし、当人は猪を捕らえることが出来ず、しかも、茂兵衛家では受け取った手付金を使ってしまい、返済できないまま5年が過ぎてしまった。そこで、息子の茂兵衛は、必ず返済する旨を連帯責任者とともに約束したのである。
 獲物の確保に奔走する幕府役人と、猪の生け捕り、その請負金を巡る生々しい顛末が、昨日今日あった出来事のように伝わってくる。