Cityかまがや118号 新連載 江戸時代の鎌ケ谷1

  ー市域の支配者たち①      ー 絵・サリーちゃん    文・立野 晃  

 前号まで掲載の「小金牧と縄文人」を引き継ぐこととなりました。ショートリリーフになると思いますが、よろしくお願いいたします。前作で扱われていなかった江戸時代の鎌ケ谷市域の歴史について、少しずつ書き進めてみます。  初回からしばらくは、260年以上続いた江戸時代の市域の支配者について述べてみましょう。

 徳川家康が征夷大将)軍に任じられた慶長8年(1603)より13年前の天正18年(1590)5月上旬まで市域を支配していたのは、小金大谷口城(こがねおおやぐちじょう)(現松戸市)を本拠とした高城(たかぎ)氏でした。この当時、高城氏は、小田原城(現神奈川県小田原市)を居城とする北条氏の配下にありました。ところが、この年3月より、全国統一を目ざしていた豊臣秀吉が北条氏の勢力下にあった関東地方へ攻め入りました。北条氏は小田原城に立てこもり抵抗しました。高城氏の当主胤則(たねのり)は500人を率いて入城したといわれています。

 長く関東に覇(は)をとなえた北条氏ですが、10万人を超える豊臣方の大軍になすすべもなく、7月5日、小田原城は落城しました。これより前の5月18日、小金大谷口城も開城し、高城氏は滅亡しました(後、胤則の子胤重(たねしげ)が江戸幕府の旗本に召し抱えられました)。  

 8月1日、北条氏の旧領地の支配を秀吉より命じられた家康は、新しく根拠地とした江戸城に入り、早速一族や家臣を関東各地へ配し、領国経営を始めました。そして、小金大谷口城には5男武田信吉(のぶよし)を入れ、旧高城領を支配させました(高三万石)。なお、武田姓であるのは、甲斐国の戦国大名として名高い武田家が滅亡したことを家康が惜しみ、その名跡を継がせたことによります。おそらく市域の村々も信吉の支配下にあったものと考えられます。

 文禄(ぶんろく)元年(1592)、信吉は四万石へ加増(かぞう)の上、同じ下総国内の佐倉(現佐倉市)へ転封(てんぽう)となりました。市域を含む旧武田領の大半は徳川家の直轄領となったと考えられています(信吉は後に水戸へ移り、慶長8年〈1603〉に死去。その跡に家康の11男頼房が入り、御三家の水戸徳川家を開きます)。そして、市域の村々の支配者が変わるのは、元和(げんな)2年(1616)のことでした。