Cityかまがや119号(2016)  江戸時代の鎌ケ谷Ⅰ

―市域の支配者たち②―           絵・サリーちゃん 文・立野 晃    

 江戸時代の市域には六つの村がありました。その一つである中沢村を元和二年(一六一六)から元禄十一年(一六九八)までの八二年間支配したのは旗本原田氏でした。ちなみに、旗本というのは、将軍直属の家臣のうち、一万石以下の支配地を与えられた武士のことをいいました。
 
 さて、原田氏の先祖は三河国(現在の愛知県東部)の出身で、徳川家に仕えていました。その系譜につらなる種正(たねまさ)は、十二歳で家康の小性を勤めることとなりました。小性の仕事は、主君の(文禄元年〈一五九二〉~慶長三年〈一五九八〉)、関ヶ原の戦い(慶長五年)、大坂冬の陣(同十九年)、大坂夏の陣(元和元年〈一六一五〉)などに参戦して戦功を重ねました。そして元和二年に、二代将軍秀忠より三〇〇石の知行地を与えられました。この中に中沢村と日暮(ひぐらし)村(現松戸市)・増尾村(現柏市)がありました。その後種正は、江戸城および市中の警備を任務とする大番(おおばん)という役職に就き、寛永十年(一六三三)には大番頭(がしら)に就任しました。また、同十三年には下総国香取郡・匝瑳郡の内で五〇〇石の加増を受け、合計八〇〇石を知行することとなりました。 慶安二年(一六四九)に死去し、そのあとは子の種延(たねなが)、孫の種要(たねとし)が継ぎ、中沢村の「地頭」として支配を続けました。

 さて、元禄十年より、幕府の方針として、旗本知行地が入れ替えられました。このため、原田氏の知行地も移されることとなりました。中沢村などは召し上げられ、すべて香取・匝瑳二郡の内へと変更されました。なお、市域で旗本の支配が行われていたのは、原田氏知行の中沢村のみでした。

 原田氏の時代の中沢村への年貢賦課について知ることができる「年貢割付状」が延宝二年(一六七四)~元禄一〇年の間で合計一五本残されています。それによると、中沢村の村高はおよそ一九〇石で、その約四〇パーセントを年貢として納めていました。また、元禄二年に原田氏が中沢村に対して示した法規を書き写したものが残されています。村の中に「地頭林」や「御用山(ごようやま)」があり、その管理を義務付けられていたことなどがわかります。