Cityかまがや120号 2016年冬号

江戸時代の鎌ケ谷1   市域の支配者たち③     絵・サリーちゃん      文・立野 晃  

 元禄十一年(一六九八)、中沢村の支配者は旗本原田氏から譜代大名の本多氏に変わりました。

 本多氏も徳川家が三河国(現愛知県の東半分)の戦国大名であった時代からの家臣でした。初代正重(まさしげ)は、江戸幕府初期の幕閣を担った本多正信(まさのぶ)の弟でした。正重は家康に従い、慶長五年(一六○○)の関ヶ原の戦いや同十九年(一六一四)から翌年にかけての大坂冬の陣・夏の陣など多くの戦いで活躍しました。その功績により、元和(げんな)二年(一六一六)下総国(現千葉県北部ほか)などで一万石を領することになりました。この時、市域の粟野・佐津間・道野辺の三村が本多氏領となりました。

 本多氏は、はじめ船戸(ふなど)村(現柏市)に陣屋を置いていましたが、幕府の要職につく当主を輩出しました。特に寺社奉行に就任した四代正永(まさなが)はたびたびの加増を受け、元禄十六年(一七○三)には上野(こうずけ)国沼田城(現群馬県沼田市)の城主となりました。そして、享保十五年(一七三○)には、東海道の要衝であった駿河国田中城(現静岡県藤枝市)へ転封され、幕末にいたります(田中藩四万石)。この間、歴代当主は、老中や若年寄などを歴任しました。

 さて、本多氏がはじめて拝領した下総の領地は、その後も田中藩飛地として存続しました。江戸時代中期以降、下総領は合計四二村・約一万石が、現在の鎌ケ谷・柏・松戸・我孫子・野田・市川の六市のうちにまとまって存在しました。これを二一村ずつに分け、北部を中相馬、南部を南相馬として、それぞれ船戸村と藤心(ふじごころ)村(ともに現柏市)に陣屋が置かれました。この陣屋へは本国から代官やその他の家臣が派遣されました。なお、市域の四村は、いずれも藤心陣屋支配の南相馬領に属しました。

 本多氏は下総国に領地を持った直後に各村の検地を行いました。市域では、粟野・佐津間両村の元和六年(一六二○)の「検地帳写」が伝わっています。これは、小字ごとに土地調査を行い、種類、面積、持ち主を細かく書き上げたもので、田と畑が別の帳簿として作成されています。この後、新規に土地が開発された時にも調査が行われ、新田分の「検地帳」が作成されました。佐津間村の場合では、寛文二年(一六六二)と正徳(しようとく)二年(一七一二)のものが確認できます。遅れて領地となった中沢村の場合は、まず元禄十五年(一七○二)に田と畑の「検地帳」が、享保十五年(一七三○)には新田の「検地帳」がそれぞれ作成され、その写しが伝わっています。