Cityかまがや121号(2017年春号)江戸時代の鎌ケ谷1


ー市域の支配者たち④ー

絵・サリーちゃん   文・立野 晃

 江戸時代中期に始まった、市域の粟野・佐津間・中沢・道野辺の四村を含む田中藩本多氏の下総領支配は、幕末まで百数十年間続きます。  
 この間、他の大名領などでみられた百姓一揆のようなものは確認されていません。ただ、下総の領民たちが藩政に対して全く不満がなかったわけではありませんでした。たとえば、安政元年(一八五四)十月末以来、田中藩江戸屋敷の門に、「御領分南相馬廿壱ヶ村名主・組頭・百姓代」とだけ書かれた無名・無印の訴状が度々貼られるという事件がありました。同じ内容の訴状は藩邸の向かい側の別の屋敷に貼り置かれており、年が明けた翌二年正月に、藤心(ふじごころ)役所は南相馬領村々への探索を行っています。

 さて、幕末期になると、騒然とした世上の状況が、田中藩下総領にも及んでくるようになります。一例を示してみましょう。

 文久三年(一八六三)、水戸天狗党(みとてんぐとう)の活動に対処するため、田中藩では、江戸深川扇橋の蔵屋敷の機能の一部を下総国加(か)村台(現流山市)へ移転し、藩士を常駐させることにしました。それにともない、江戸在駐家臣の家族は、下総領分村々へ一時的に仮住居することとなりました。おそらく、その調査のためと考えられますが、佐津間村の宝泉院の本堂・庫裏(くり)の平面図が書かれ、藤心役所へ提出されています。  

慶応四年(一八六八)五月、一五代将軍であった慶喜のあとを継いで徳川宗家の主となった家達(いえさと)は、駿河・遠江両国に七○万石を与えられ、駿河国府中藩が成立しました。このため、両国に所領のあった大名は、上総・安房(あわ)の両国のうちへ転封となりました。田中藩主本多正訥(まさもり)も安房国長尾(現南房総市)へ移り、長尾藩が成立しました。下総領は、しばらくの期間長尾藩の飛び地となった後、明治元年(慶応四年が改元)十月、上知となり、旧領の村々は、武蔵・下総知県事(ちけんじ)の支配となりました。

 なお、この時に、旧中相馬・南相馬領四二村は、引き続いて本多氏領となることを新政府に願い出たものの、却下されました。一般に、このような支配替えが行われる際、新たな負担増を恐れた旧領民たちが、もとの領主の転封撤回を求めることはよくありました。  いずれにせよ、粟野・佐津間・道野辺の三村では、元和二年(一六一六)以来長きにわたって続いた本多氏の支配が終了を告げることとなったのです。