タウン情報誌 Cityかまがや122号(2017年夏号)

江戸時代の鎌ケ谷2 ―江戸時代の村①~中沢村~―       文・立野 晃  

 今号より新しいテーマとなります。江戸時代の市域には、六つの村がありました。中沢・道野辺・佐津間・粟野・鎌ケ谷の五村と軽井沢新田です。今回は中沢村を取り上げてみました。

 現在の市域の南西部に位置する中沢村ですが、すでに南北朝時代の史料で村名が確認できます。  さて、江戸時代の村の様子を記した史料に「村明細帳」があります。「中沢村明細帳」は、元禄十一年(一六九八)と寛保二年(一七四二)のものが伝わっています。後者により、一八世紀半ばころの概況をみてみましょう。
 
 中沢村の村高は、三九0石一斗余で、江戸時代初期のの高は一八九石九斗余、江戸時代に入ってから開発された新田が二00石一斗余です。この時期までに、いかに開発が進んだかということがよくわかります。耕地の別では、田が三六町五反余、畑が三0町一反余でした。また、村内には山(林)がかなりありました。百姓持山(村民の共有の林)が二六町七反余、御林(おはやし)(領主所有の林)が合計三四町余とあり、耕地に匹敵する面積です。御林は、合計十一か所のうち九か所は松林でした。なお、そのためと考えられますが、明治十年代の地図をみると、中沢村の台地上は、針葉樹の林が広く分布しています。

 戸(こ)口(こう)は、家数六五軒・人口が三二九人です。ちなみに、四四年前の元禄十一年は、五六軒・三四九人でした。また、合計三一疋の馬が飼育されています。これらの馬は、農耕や運搬に使役されていたのでしょう。

 作物は、水田では米、畑では麦、粟、稗、大豆、大根、瓜・芋が栽培されていました。副業として、男は秣(まぐさ)を刈り、筵(むしろ)を織り、萱(かや)・麁(そ)朶(だ)・松枝などを行徳(現市川市)へ出荷し、女は薪を取り、糧を摘み、機を織りました。

 中沢村は、小金中野牧野付(のつき)村でしたので、毎日見廻りの人足を一人ずつ出していました。また、野馬(のま)捕りの際には、勢子人足を一八人出すことになっていました。村と牧場の境には「野馬囲土手(野馬除(よけ)土手)」があり、その修復も行っていました。 村内の寺社として、万福)寺(日蓮宗)と正八幡大菩薩・春日大明神(現八幡・春日神社)のほか、子頭(ねず)権現、高山(こうやま)大明神、山王(さんのう)権現、谷地(やじ)川八幡社、弁財天、白旗(しらはた)権現と宮守正林坊(みやもりしょうりんぼう)が存在しました。江戸時代の村には、鎮守の神社のほか、小さな社が多数存在していました。これらは、明治時代以降に整理・統合されていきます。中沢でも、大正五年(一九一六)に小さな祠(ほこら)は、八幡・春日神社に合祀されました。