Cityかまがや123号 2017年秋号

江戸時代の鎌ケ谷2 江戸時代の村②~佐津間村~
   文・立野 晃

 今回は、現在の市域北部に位置する佐津間村を紹介してみましょう。佐津間村は、すでに鎌倉時代の史料で村名が確認できる古い村で、戦国時代末期には、小規模ながら城が築かれていました(佐津間城)。
 佐津間村は、村高が一三〇石余で、どちらかといえば小さな村でした。江戸時代初期から、譜代大名本多氏が支配していました。江戸時代中期の寛保二年(一七四二)の「村明細帳」が残されていますので、この史料で当時の様子を垣間見ましょう。

 耕地面積は、田が二〇町七反余、畑が七町八反余で、水田面積の比較的広いことが注目されます。現在の大津川沿いの低地に水田が広がっていました。そのほか、領主の所有林である御林が七か所・四三町余ありました。それらの中で、後山御林(ほぼ現在の西佐津間一・二丁目に相当)は二四町余と広大です。樹種は雑木と思われます。

 村内の寺社には、宝泉院と太子堂(明治五年に廃止)、鎮守大宮権現(現大宮神社)と山王権現(現日枝神社)など八つの小祠がありました。なお、この年の家数は三二軒、人数は一五〇人、馬数は三八疋でした。

 佐津間村の西側には広大な小金中野牧が広がっていて、佐津間村はその野付村でした。そのため、牧場に関連して造られた野馬除土手や勢子土手の普請を担ったり、野馬捕りの際の人足を勤めました。また、平素も牧場内に割り当てられた担当場所があり、生息する野馬に異常がないか見廻りをしました。もし、死馬などがあれば牧士に知らせ、処理について指示を受けました。その一方、牧場内には佐津間村が使用できる野銭場があり、野銭を納入して、下草を刈り取り、利用することができました。このほか、牧場内に生息する小動物が村内にきて、耕地を荒らすようなこともあったため、それらを仕留めるための鉄砲の所持が許されていました。

 小金牧は、享保一○年(一七二五)、同一一年、寛政七年(一七九五)、嘉永二年(一八四九)と四回行われた将軍の鹿狩りの場となりました。牧場に隣接する佐津間村は、勢子人足も出しましたが、他の地域からやってきた勢子たちの寄場となり、彼らに対する接待をしました。

 そのほか、鷹場の一種で鷹の調教場である御捉飼場にも指定されていました。そのため、鷹が捕らえた 雲雀などを将軍へと献上する上げ鳥御用も勤めました。これらのことを取り仕切るため、鷹匠たちがしばしば来村しましたが、彼らに対する接待も義務でした。