タウン情報誌 Cityかまがや124号(2017年冬)

江戸時代の鎌ケ谷2 ―江戸時代の村③~鎌ケ谷村      文・立野 晃

 今回は、現在の市域南部に位置する鐮ケ谷村を紹介してみましょう。「鎌ケ谷」の村名は、「明治の町村合併」の際に、近隣で最もよく知られていたことから新村の名称として採用され、現在の鎌ケ谷市にまでいたっています。

 鎌ケ谷村が成立したのは江戸時代初期の寛永年間(一六二四~四四)でした。木下街道の宿場として設けられたものです。当初は現在の鎌ケ谷三・四丁目付近(現在でも「宿」と通称されています)のみが範囲でしたが、その後街道に沿って現在の馬込十字路方面へと開発されていき、江戸時代の後半には今見られるように、街道の両側に家並みが続く景観となっています。

 さて、鎌ケ谷村の「村明細帳」は合計五冊が残されています。この中から、西暦一八○○年にあたる寛政十二年の村明細帳を中心に、村の様子をトピックス的にみてみます。

 鎌ケ谷村は、寛永年間に開発された「原鎌ケ谷村」に、延宝年間(一六七三~八一)に開発された一本椚新田(現「中新田」)、享保年間(一七一六~三六)に開発された鎌ケ谷新田(現「大新田」)に地域区分されています。耕地は、田と比べて圧倒的に畑が多いのが特色でした。作物としては、小麦、ダイコン(切り干し用)、サツマイモ、菜種などが栽培されていました。
 このほかに「林畑」と記された土地も広大にありました。これはナラやクヌギなどの雑木を植えて薪を伐りだした林地のことで、地味の悪い畑とみなされました。中には「野馬入」と注記されている場所もあり、人と牧場の馬が入会で利用していたことがわかります。

 さて、この年の鎌ケ谷村の戸数・人口は七九軒・三九九人で、馬が四三疋いました。馬は街道で物資を運んで金銭を得る駄賃稼ぎに使用されていました。なお、明治初年まで鎌ケ谷村の戸口は増え続けます。明治五年(一八七二)には、一○六軒・六三七人と記録されています。

 宿場らしい記述として、商家が一○軒・旅籠(旅館)七軒とあります。なお、明治六年に営業していた旅籠は、鹿島屋・丸屋・銚子屋・船橋屋の四軒です。これらのうち、文政八年(一八二五)六月二十九日には、「四州真景」の旅をしていた渡辺崋山が、鹿島屋で夕食をとったことが知られています。  ただ、二四年前の安永五年(一七七六)に造られていた鎌ケ谷大仏については記載されていません。