タウン誌Cityかまがや125号 江戸時代の鎌ケ谷2

江戸時代の村④~軽井沢新田             絵・サリーちゃん       文・立野 晃

 今回は、現在の市域北東部に位置する軽井沢の江戸時代の様子を紹介してみましょう。

 軽井沢の地に人の痕跡が見られるようになったのは、今から1万数千年前の旧石器時代後期のことです。字落山からは、多数の石器が発見されています。また、縄文時代早期~中期の遺物が同じく落山遺跡から、奈良時代の遺構と遺物が遠山遺跡から発掘されています。しかし、その後長い年月にわたって、人の生活の痕跡が途絶えます。

 軽井沢の地に村が形成されたのは江戸時代前期のことです。一七世紀は「大開発の時代」ともいわれ、日本全国で新しい耕地が開かれました。そのような土地のことを、田も畑も合わせて「新田」とよんでいます。特に房総の地では、寛文・延宝年間(一六六一~八一)にそのような新田村が多数誕生しました。軽井沢もこのころに開発された村で、「軽井沢新田」とよばれました。延宝五年(一六七七)に検地を受け、正式に村として成立しました。その時の村高は三二五石余で、この数値は幕末まで変わりませんでした。

 もっとも、新田とは言っても、台地上を開発したので、耕地は水田ではなく畑でした。なお、江戸時代を通じて、幕府の支配を受けました。また、当時は印旛郡に属していました。 江戸時代の戸口がわかる史料がありませんが、明治三年(一八七一)のデータでは、一○軒・六三人でした。

 さて、文化十三年(一八一六)の「軽井沢新田村明細帳」が伝わっています。この史料からわかることをいくつか記してみましょう。
耕地の総面積は六十四町六反余ですが、田は四反余しかなく、約六十四町二反が畑でした。このほかに、松林が十五町、百姓持林が二十一町余、芝原が四十八町余ありました。

 また、社地が一か所あり「鎮守八幡」と記されていますが、現在の八幡神社のことです。また、庵も一か所あり、こちらは名称が記されていませんが、別の史料には「地蔵尊」をまつった堂と記されています。これは平成十三年まで「お堂」と通称されていました(現在の軽井沢自治会館)。
 なお、「軽井沢新田」の地名は、明治・大正時代も使用され続け、「軽井沢」に改称されたのは昭和三年(一九二八)のことでした。