Cityかまがや126号 2018年夏号  江戸時代の鎌ケ谷2

―江戸時代の村⑤~粟野村   絵・サリーちゃん 文・立野 晃 

 本誌122号~125号で紹介した四村(鎌ケ谷・軽井沢・佐津間・中沢)のほかに、江戸時代には粟野村と道野辺村がありました。しかし、この二村の「村明細帳」が伝わっていないため、特定の年代の詳細な村の様子を知ることができません。そこで、他の史料などから可能なかぎり記載してみましょう。
 
 まず、今号では粟野村について記してみます。  佐津間村と小金中野牧の間に位置する粟野村は、鎌倉時代の史料で村名が確認できる古い村です。しかし、一五~一六世紀にかけての時期には、村の存在が確認できません。唯一、現在地区の鎮守となっている八坂神社が大永三年(一五二三)に創立されたといいます。
 江戸時代に入ると、元和二年(一六一六)には、佐津間村などといっしょに譜代大名本多氏の領分となりました。その四年後の元和六年に作成された「検地帳」の写が残されています。

 この史料によると、粟野村の耕地の面積は、田が一八町三反余、畑が約九町、屋敷地は四反余で、田が中心であったことがわかります。また、村高を合計すると、八二石五斗七升となり、比較的規模の小さい村でした。なお、この村高は元禄年間(一六八八~一七○四)でもかわっていません。そして、幕末には、九一石九斗二升九合とわずかに増加していました。他の村のように、大規模な新田開発ができる余地が小さかったのかもしれません。
 次に、明治十年(一八七七)に作成された「粟野村地引絵図」が伝わっています。この絵図を見ると、現在の大津川とその支流である長谷津の西側の台地上の字東側・西側に集落があり、東側の台地上は一面林となっていることがわかります。この林は現在の「粟野の森」にあたります。なお、現在でもその名残がありますが、通りの両側にほぼ同じ地割の屋敷地が帯状に並ぶ集落景観が見られます。

 さて、天保八年(一八三七)に、佐津間村の宝泉院が管理していた神社や堂の中に、粟野村のものも書き上げられています。社としては、鎮守の牛頭天王(現八坂神社)と三十番神(「粟野村地引絵図」では「篠宮神社」)、堂としては、千手観音と阿弥陀如来を祀る千手坊が記されています。このうち、千手坊には、明治二年に、初富開墾を統括するための「開墾局仮役所」が一時置かれました。  なお、享保十八年(一七三三)から元文二年(一七三六)の間、粟野村には名主が置かれず、佐津間村の名主が兼務していました。