Cityかまがや126号2018年夏号 インタビュー

ネパールからの留学生   ディヌバズラチャルヤさん

人生を 変えた 12年

ぷろふぃーる  1984年5月25日ネパール生れ。  ネパールの大学卒業後、2006年メロス言語学院(池袋)で日本語を学ぶ。2008年亜細亜大学入学、2012年亜細亜大学大学院(修士課程)入学。2014年御茶ノ水女子大学大学院(博士課程)に入学、2018年3月博士号を取得卒業。その間2011年ネパール人と結婚、一女に恵まれる。  

Cityかまがやに10回にわたってエッセイを書き、この3月「お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科人間発達科学専攻」の博士課程を終えられたディヌさん。論文テーマは「ネパールの初等教育における中退リスクの規定要因―カトマンズ盆地を事例としてー」。  帰国を前に心境を伺いました。

■日本留学のきっかけ■

―卒業おめでとうございます。日本留学のきっかけは何ですか。
 義理の兄が2005年の愛知万博でネパール館の館長をしていまして、夏休みを利用してお手伝いにきました。その義兄の勧めもあり日本留学を決めました。
―最初の2か月、鎌ケ谷から日本語学校へ通っていたと聞きますが。
 義兄の知り合いで今でも日本のママと思って頼りにしています。初めての日本で驚くことばかりでした。特に難しい単語は使わず、小さな子どもにも通ずる言葉で話してくれました。また社会のルール、考え方、文化の違い、電車の乗り方など様々なことを教えて頂きました。

―ネパールの国旗って三角形が重なっていて、珍しい形ですよね。どんな意味があるのですか。
 三角形は世界中にもないと思います。  国旗の意味はいろいろな説があります。一般的には三角形はヒマラヤ山脈エベレストのことを表します。更に色は赤が血(ブリティッシュ兵と戦ったGORKA兵の血)、青は汗(農業を主な仕事とする8割のネパール人の汗)、白は平和(ブッダの生まれた国)です。

■奨学金に感謝■

―貨幣価値も違う中で留学費用も大変だったと思いますが。
 奨学金とアルバイトで賄いました。
 
JASSO(海外留学支援制度)、小林奨学財団、とうきゅう留学生奨学財団、本庄奨学財団、渥美奨学財団など各財団からそれぞれ1年又は2年奨学金をいただきました。おかげ様で途切れることなく勉強できました。
―奨学金をもらうにはどのようにするのですか。
 成績表や推薦状を添えて個人申請をします。何度か試験や面接があり、合否が決定します。  財団の経済的サポートがなければ研究は続けられなかったです。本当に感謝しています。

■子育てとの両立■

―学業の傍ら、娘さんの子育てはどんな風に。
 主人とは同じネパールからの留学生で、奨学生の集まりで知り合い、2年程お付き合い後結婚しました。彼は今ICUの大学院生です。娘は4歳半になりました。
 二人とも勉強が忙しかった一時期ネパールの実家に預けたこともありますが、ここしばらくは多摩の保育園に預けていました。
 結婚後も失ったものは何一つなく、同じ研究分野ですので、勉強も、子育てもお互い助け合いながら過ごしています。主人に出会えて本当によかったと思っています。
 娘には主人は英語で、私はネパール語で話すようにして、娘は今三か国語を話しています。保育園に入って短期間に日本語を覚えてくれたこともうれしいことでした。
 ネパールでは小学校から英語を学びますし教育水準は高いです。でも高等教育に関しては日本の方が専門分野も多く進んでいる様に思います。ですからネパールの青年達は海外留学を目指しています。

―今後はネパールの小学校へ?
 娘の英語教育等を考えるとネパールです。先生や友達もでき、日本を離れるのは娘ともどもつらいのですが…。
―ネパールではどんなことをやっていきますか。
 社会学の博士号をとったので、それに関係する仕事を目指しています。  特に教育機関及び国際機関での仕事を中心に研究を続けていきます。これまでの知識を生かしてネパールの国や子供達のためになれるよう頑張りたいと思います。

*  *  *  お姉さんの代わりに学校に行っていたというほど、小さな頃から勉強が大好きだったので、学齢よりも一年早く学校に入学した。  そんな勉強好きのディヌさんは日本生活12年を振り返り、14歳で父親が亡くなり、自分の家族を守ることと自分の将来が両立できたことに感謝し「日本に来る前には想像できなかった」と述懐する。  自分が相手からの影響を受けやすい性格なので、人の影響の良し悪しについて判断できる人間になってほしいと娘には少しずつ教えているのだそうだ。  4月13日、あと一年日本の大学院で研究を続けるご主人を残し、娘と共に成田空港からネパールへと旅立って行った。  もちろん成田空港ではご主人と、日本のママが見送った。