Cityかまがや127 (2018年秋号)


江戸時代の鎌ケ谷2 ―江戸時代の村⑥~道野辺村      絵・サリーちゃん  文・立野 晃  

 道野辺(みちのべ)村は西隣の中沢村とともに、南北朝時代の古文書で村名が確認できる古い村です。

 江戸時代に入ると、粟野・佐津間両村などとともに、元和(げんな)2年(1616)から譜代(ふだい)大名本多氏の領分となりました。村髙は、江戸時代初期には95石2斗余、元禄13年(1700)ごろには137石5斗余、そして幕末には256石9斗余と増加していますので、かなり土地の開発が行われたことが知られます。
 なお、万延(まんえん)元年(1860)の耕地面積がわかり、本田(ほんでん)が17町8反余、本畑(ほんばた)・屋敷が8町8反余、新田(しんでん)が111町2反余、新畑(しんばた)が10町余で、田地の面積が広かったことが知られます。

 さて、残念ながら江戸時代の道野辺村について記した古文書はさほど多くは残っていません。数少ない現在まで伝わったものの一つに、万延元年の「道野辺村人別帳」があります。この史料によると、同年の道野辺村の戸口は、39戸・188人でした(ちなみに、各戸で飼育していた馬が合計25疋(ひき)いました)。
 なお、嫁(よめ)や婿(むこ)の出身地も記載されていて、鎌ケ谷・中沢(以上現市域)、印内(いんない)・上山新田(かみやましんでん)・夏見(なつみ)・二子(ふたご)・船橋九日市(ここのかいち)・前貝塚(まえかいづか)・南金杉(みなみかなすぎ)・山野(やまの)(以上現船橋市)、大野(おおの)・大町(おおまち)新田・大和田(おおわだ)・柏井(かしわい)・八幡町(やわたまち)(以上現市川市)、中木戸(なかきど)新田・富ケ沢(とみがさわ)(以上現白井市)、紙敷(かみしき)(現松戸市)といった比較的近隣の村名が確認できます。

 道野辺村と他村が境界をめぐって争ったことが知られています。寛永(かんえい)10年(1663)と元禄13年には、中沢村と境界土手をめぐって争い、領主本多氏の役所に裁許を求めています。

 また、江戸時代初期に成立した丸山(まるやま)新田(現船橋市)とは、文政(ぶんせい)7年(1824)から天保14年(1843)にかけてたびたび争論が起こりました。それまで曖昧であった村の領域が確定していく中で生じたあつれきでした。

 さて、道野辺村の鎮守(ちんじゅ)は根頭(ねず)神社でした。そのほかに、元は中野牧(なかのまき)の内で、後に道野辺村に編入された所に八幡(はちまん)神社と七面堂(しちめんどう)が所在しています。いずれも現存する神社です。そのほか、明治時代までは大平権現(おおひらごんげん)という神社がありました。また、檀那寺(だんなでら)として中山法華経寺(なかやまほけきょうじ)(市川市)末(まつ)の妙蓮寺(みょうれんじ)があります。現在、日蓮ゆかりの寺として伝承がありますが、文政8年(1825)に本寺へ提出した「妙蓮寺起立草創書」という史料にその原型となる内容が記載されています。