Cityかまがや128号(2018年12月冬号)

江戸時代の鎌ケ谷11 ―村と村との争い1 ~前期の境界出入~︱   文・立野 晃
 
 江戸時代の古文書の中に、村と村とが争った内容を記したものが残されています。その内容は、林野や用水の使用、牧場(まきば)や鷹場(たかば)・助郷(すけごう)の負担など様々なものがあります。なお、これらの争論を史料では「出入(でいり)」と表記されることが多くあります。
 市域の村々も例外ではありませんでした。今回はそれらの中から、江戸時代前期の一七世紀に頻発した、境界に関する村と村との出入の事例を紹介します。

 天和(てんな)二年(一六八二)、軽井沢新田(現鎌ケ谷市)・中木戸(なかきど)新田(現白井市)と富塚村(現白井市)・藤ヶ谷村(現柏市)との間で、野をめぐる出入が起こりました。軽井沢・中木戸の両新田は江戸時代に誕生したばかりの新しい村、富塚・藤ヶ谷の両村は中世から続いている古い村です。境界付近にある野が新旧どちらの村のものかということが主な論点でしたが、関係村の支配者が異なるため、最終的に江戸幕府評定所(ひょうじょうしょ)が裁定しました。
 その結果、野に隣接して存在する細長い谷津(やつ)は、古村が開発して水田とし、年貢を納めていることから、ほとんどの場所が富塚・藤ヶ谷両村のものであることが確認され、関係村々にこのことを記した裁許絵(さいきょ)図が下されました。現在、市内軽井沢の北側と東側の金山落(かなやまおと)し流域の低地が柏市域となっているのは、この時の決定によるものです。

 さて、少し前の市内の詳細な地図を見ると、初富字東野(あざひがしの)の中に、飛び地のように鎌ケ谷字四本椚(よんほんくぬぎ)がありました。この部分は、先の金山落しの最上流部の水源にあたる場所です。この付近の土地をめぐって、元禄四年(一六九一)、鎌ケ谷村と富塚・藤ヶ谷両村が争いました。その結果、同じく幕府評定所の裁許により、大半は古村のものと確定され、わずかに鎌ケ谷村分として認められたのが四本椚の地でした。
 このように、古村と新田が争った場合、多くは古村側に軍配があがることが多かったようです。

 一方、古村同士の出入の事例もあります。元禄十三年(一七○○)、中沢村と道野辺村は、中沢村の字南久保(みなみくぼ)の西方に所在する道野辺村の御林通(おはしどおり)にある二筋の土手をめぐって争いました。両村とも本多氏(後の田中藩主)支配の村でしたので、出訴(しゅっそ)先は同氏の役所でした。この結果は、両村が一筋ずつの土手を所持し、土手の間は入会(いりあい)とすることに決まりました。
 これらの出入は、いずれも江戸時代の初期から前期にかけて、それまであいまいであったり、入会地であった場所(野・山・海など)が村の領域として確定されていく中で展開した争論といえます。