Cityかまがや129号(2019年春号)

江戸時代の鎌ケ谷12
―村と村との争い2 ~後期の境界出入~
︱絵・サリーちゃん 文・立野 晃  

 江戸時代、村と村とが境界を争う出入りは、前号で取り上げたように、村の領域が確定していく17世紀~18世紀初頭にかけてみられました。しかし、この時代の後期にいたっても、そのような争いが起こることもあります。

 現在の鎌ケ谷市の地図を見ると、南部の道野辺地区の中に、船橋市丸山の大きな飛地があります。この場所は、江戸時代の初期には道野辺村の「運上野(うんじょうの)(税を納めて草を刈り取る権利を独占的に有していた野)」で、延宝年間(1673~81)に開墾され、丸山新田という新しい村として成立しました。
 この時に両村の境界が決定されましたが、しばらくするとよくわからなくなりました。そこで、元禄年間(1688~1704)に松や雑木(ぞうき)を植えて境を明らかにし、薪となる樹木の枝などは公平に分配することとしました。

 さて、約120年が経過した文政7年(1824)、丸山新田の者が、年数が経て境界の通路の障害となっていた立木(たちぎ)を伐採・処分したことから、道野辺村が訴訟し、争論となりました。
 この一件は、一度は鎌ケ谷村の問屋(とんや)や藤原新田・上山(かみやま)新田(ともに現船橋市)の名主らが仲裁に入り内済(ないさい)(和解)しましたが、翌8年に問題が再燃しました。この時は、丸山新田側が訴訟を起こしました。同村の主張によると、道野辺村が前年の内済内容に違反し、丸山新田が利用していた芝地(しばち)へ勝手に溝(みぞ)を掘り、さらには同村の水場も埋め立ててしまったといいます。この時は、一度は幕府役人が見分(けんぶん)に訪れたりもしましたが、前年の仲裁者たちが再び間に入り、道野辺村が掘った溝は埋めること、道野辺村の者が耕地へ往来するための道の通行に支障が生じないようにすることなどが決められました。

 ところが、天保14年(1843)に三度目の争論が起こりました。「天保の改革」の一環として、全国的に荒地となっていた場所の再開発がはかられました。その際、村境の場所は隣村の村役人も立ち会わせることとなっていました。そこで、丸山新田・道野辺村境の場所について確認すると、両村が互いに自村のものと主張する土地がありました。この時は、藤原新田と紙敷(かみしき)村(現松戸市)の者が仲裁しましたが、両村の境は溝であることが確認されました。

 なお、同じような内容の争論は、中沢村と藤原新田の間でも起こっていることが確認できます。