Cityかまがや130号(2019年6月6日発行)夏号

江戸時代の鎌ケ谷13 ―木下街道と鎌ケ谷宿の成立  絵・サリーちゃん 文・立野 晃


 現在、市の南部を通る主要地方道「市川・印西(いんざい)線」は、「木下街道(きおろしかいどう)」という通称で知られています。歴史的には、江戸時代の初期に、幕府によって設定された脇(わき)街道の一つでした。
 今回からは、「木下街道」に関わる歴史について紹介してみましょう。なお、この道は、江戸時代には「木下道」「印西道」「鹿島(かしま)道」「銚子(ちょうし)道」など、明治時代には「銚子街道」などと呼称されていました。
 たとえば、南鎌ケ谷三丁目の清長庵(せいちょうあん)境内に現存する道標地蔵(どうひょうじぞう)(正徳(しょうとく)五年〈一七一五〉造立、市指定文化財)には、「ゐんざいみち(印西道) かしま(鹿島)道」と刻まれています。しかし、煩雑となりますので、「木下街道」で統一して表記します。

 さて、今号では、木下街道の成立に関わる歴史を記してみます。
 成立間もない江戸幕府は、一七世紀の前半に、江戸を起点とした幹線である五街道(東海道・中山道(なかせんどう)・日光道中(にっこうどうちゅう)・奥州(おうしゅう)道中・甲州(こうしゅう)道中)及びそれに準じる脇街道を整備しました。
 その目的は、主として公用交通のためでした。その代表例が大名の参勤交代です。これらを円滑に行うため、各街道には適宜宿(しゅくえき)駅が設置され、助郷(すけごう)制度が導入されました。

 千葉県北西部の地にも、木下街道のほか、房総往還(ぼうそうおうかん)、水戸(みと)道中、成田道(街道)、小金(こがね)・佐倉(さくら)道などの脇街道が置かれました。これらのうち、木下街道は、江戸川と利根川のそれぞれの河岸場(かしば)であった行徳(現市川市)と木下(現印西市)を結ぶ道として、寛永年間(一六二四~四四)に整備されました。両河岸の距離は約九里(約三六㎞)あり、この間はほぼ下総台地上を通り、八幡(やわた)(現市川市)・鎌ケ谷・白井(しろい)(現白井市)・大森(おおもり)(現印西市)の計四宿(しゅく)が設置されました。 これらの宿場は、寛永八年ころまでに宿割が行われたようです。鎌ケ谷宿の場合は、古作(こさく)村(現船橋市)より移住した人たちを中心に切り開かれ、寛永六年には幕府による検地を受けました。
 また、同村の鎮守である八幡(はちまん)神社も同年の創立と伝えられています。なお、当初の鎌ケ谷宿の範囲は、現在の八幡神社付近から延命寺(えんめいじ)付近までの間でした。そのため、現在でもこの区間を「宿(しゅく)」と通称しています。 

木下街道は、下総国西部の大動脈として江戸時代を通じて重要な役割を果たしていきます。また、多くの人たちが通過していきました。次号以降でその様子を垣間見ることとします。