タウン情報誌 Cityかまがや131号(2019年9月)

江戸時代の鎌ケ谷14 ―木下街道の役割―   絵・サリーちゃん 文・立野 晃

 今号では、木下街道が果たした様々な役割について述べてみます。
 そもそも、江戸時代の街道は、公用交通をスムーズに運用するため、幕府によって整備が進められました。そのため、街道には宿駅(宿場)や一里塚などが設けられました。また、各宿場には、公用交通の者を宿泊をさせるための本陣や脇本陣の設置や荷物を運搬するための人馬の提供が義務として課せられました。  

 さて、公用交通の代表例が多くの家臣を率いた大名たちの往来でした。江戸時代の大名は、支配地と江戸との間を定期的に行ったり来たりすることが義務づけられていて、これを参勤交代とよんでいます。
 木下街道を使用したのは、下総国(現千葉県北部)や常陸国(現茨城県の大半)南部に陣屋を構えていた、高岡藩(井上氏一万石)・小見川(おみがわ)藩(内田氏一万石)・麻生藩(新庄(しんじょう)氏一万石)といった小大名でした。ただ、幕末に一度だけ水戸藩(徳川家)による通行がありました(後の号で紹介の予定)。また、幕府の役人の通行もしばしばありました。そして、幕末期には、いわゆる「海防(かいぼう)」のための通行が頻繁となります。

 なお、大規模交通があった場合、平素備えている人馬だけでは不足することが予想されるため、宿場周辺の村に、それを補うための人馬を提供することが義務づけられていました。これも、後にくわしくふれてみます。

 さて、街道は私的な交通にも使用されました。代表的なものが、江戸時代に盛んになった社寺参詣でした。木下街道の場合、江戸の庶民たちが、香取神宮(千葉県香取市)・鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)・息栖(いきす)神社(同神栖(かみす)市)へと参拝する「三社詣」に利用されていました。  また、下利根川方面の名所・旧跡などへ旅する文人・墨客(ぼっかく)にも利用されました。たとえば、貞享(じょうきょう)四年(一六八七)には、「鹿島紀行」の旅で俳人松尾芭蕉が、文政八年(一八二五)には「四州真景(ししゅうしんけい)」の旅で渡辺崋山が通ったことが知られています。

 木下街道は経済的にも重要な道でした。周辺地域からの年貢米や商品作物を江戸へと、逆に江戸から沿道の村々へと物資を運搬することに利用されました。江戸に送られた物資の中で、最も有名なものとして、銚子沖や鹿島灘、霞ヶ浦でとれた魚がありました。これらを、江戸日本橋の魚市場まで運ぶ最も主要な道として定められていたことから、「鮮魚(なま)街道」と通称されていました。