Cityかまがや132号(2019,12月)

江戸時代の鎌ケ谷15  ―木下街道をめぐる出来事―    文・立野 晃  

 最終回は、江戸時代から明治初年に、鎌ケ谷宿(しゅく)を中心に木下街道で起こった出来事を紹介します。

 まず、天保(てんぽう)十四年(一八四三)に水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)が通行した際の顛末です。この内容をくわしく知ることができるのは、鎌ケ谷宿の助郷(すけごう)村であった藤原新田(現船橋市)の名主が詳細に書き留めた史料が残されているからです。

 御三家の一つ水戸藩主は、通常は江戸に居住し、国元に用事ができた場合に限り、幕府に許可を得て国入りすることになっていました。この時の公式的な経路は、水戸街道を利用することになっていました。
 ところが第九代藩主斉昭(一五代将軍慶喜(よしのぶ)の父)は、木下街道を利用して帰国することとし、その旨を認(したた)めた触書(ふれがき)を街道の宿場へ通達しました。その中には、通行日は六月十三日、鎌ケ谷宿で昼食・休息すること、約六百人が通行することなどが記載されていました。この大人数の通行は、木下街道ではめったにないことでした。小大名の参勤交代はたびたびありましたが、三五万石の大藩主の通行は開闢(かいびゃく)以来でした。
 さて、当日は助郷村から人足九七○人・馬一一六疋(ぴき)が集められました。斉昭が休息する本陣(ほんじん)は問屋源之丞(とんやげんのじょう)宅、脇(わき)本陣は名主源内(げんない)宅で、旅籠だけでは足りなく、農家の家も休息所とされました。なお、斉昭は問屋宅に「鎌ケ谷に かりのやどりを して見れバ まつもことばの 友とこそなれ」という和歌を残しました。
 不慣れなためかなりバタバタであったようで、支払金に不足などが生じました。藤原新田の名主は、今後このような通行がある場合には助郷を増やすべきことを教訓として残しました。

 さて、街道をめぐっての争論が、中期以降何回かありました。大きくは二種類です。一つは街道の主な運搬物資である鮮魚の輸送をめぐる出荷者と街道の宿場との争論が江戸時代中期にありました。そして、幕末になり、公的な交通が頻繁になってくると、助郷の人足や出銭などが増加し、それをめぐっての宿場と助郷村との争論が頻発しました。

 最後に江戸時代の終わりの年となる慶応四年(一八六八)には、鎌ケ谷宿の近辺で戊辰戦争の一環の戦いがありました。この年閏四月三日、鎌ケ谷宿に駐留していた新政府軍の佐土原(さどわら)藩士約一二○名と旧幕府軍の撒兵隊(さっぺいたい)が現在の馬込沢付近で衝突しました。戦い自体は新政府方の勝利でしたが、藩兵ら二名が戦死し、大仏墓地に葬られました。この墓地は、市指定文化財「官軍兵士の墓」として現存しています。