Cityかまがや132号(2019,12月) インタビュー

  鎌ケ谷メディカルクリニック院長 山本穣司さん

在宅医療に燃える思いを!

ぷろふぃーる 山本穣司(やまもと・じょうじ) 山本穣司(やまもと・じょうじ) 平成元年新潟大学医学部卒業。 東京大学附属病院、東京医科歯科大学附属病院を経て、 平成14年瀬戸内徳洲会病院 病院長、15年千葉西総合病院外科部長、16年同病院副院長、19年鎌ケ谷総合病院副院長(外科)22年~31年3月鎌ケ谷総合病院病院長。

■日本外科学会専門医・指導医  日本がん治療認定医  消化器がん外科治療認定医  プライマリ・ケア認定医  認定病院総合診療医  臨床修練指導医

■診療科目  内科・外科・在宅診療・  生活習慣病・胃カメラ・健康診断


 この春鎌ケ谷総合病院病院長の座を辞して、くぬぎ山に診療所を開業した山本先生にインタビュー



■24時間往診体制です■

―診療所を開くというのは大きな決断だと思いますが、その動機は。

 30年の医者生活の中で、一つの疾患だけでなく総合的に診る必要性を実感するようになりました。地域医療・在宅医療をやっている友人も大勢いて、話を聞いているうちに自分もぜひそこに身を置いてみたいと思ったからです。
 また徳洲会病院は徳田虎雄先生の「生命だけは平等だ」という理念がありますから、私は離島(奄美大島)で働いたこともあり、在宅医療の大切さも感じていました。
 病院まで来られる人はいいのですが、例えば酸素ボンベがないと呼吸できない人、足が悪くて歩けない人、家でがん治療を続けたい人など病院に来られない人のために、個人宅や施設を訪問し、定期的に月1~2回往診し、治療、健康管理を行う。もちろん病状の急な変化にはすぐかけつけます。  往診診療代という形で保険診療ができ、入院より医療費が少なくて済みます。ですから今は国も在宅診療をすすめているのです。

―在宅診療を受けるための何か決まりはあるのですか。

 患者さんの希望があれば、医師の判断でやることができます。
 法的には16㎞迄となっていますが、今は白井、松戸、北松戸、船橋まで行っています。ここからは(くぬぎやま交差点近く)比較的近隣の街へも出やすいです。  24時間往診体制の「在宅療養支援診療所」の届を出しています。現在は木曜日の午後を訪問診療に当てています。

―看取り診療というものがあると聞きますが。  ああそれは医療(医者)を含めてやる場合と、介護だけでやる場合とありますね。最後を静かに看取るということです。介護保険と医療保険をミックスして、在宅で家族と過ごしたい方にはとてもいいですね。

―医者になろうと思ったきっかけは。
 
 親戚縁者に医療系は誰もいないし、強い動機も高邁な考えがあったわけでもないのではずかしいです。強いて言うなら、小学生の頃父が農業の研究者で、アメリカに行くことになって、母が富山の薬を一杯買い込んで行ったんです。その薬箱の薬の成分を見たり、塗ってみたりして楽しんでいました。そんな時母に何になりたいのと聞かれて医者と答えていましたけど。本当に面白いと思ったのは大学の医学部に入ってからです。いろいろ学んで努力して実際治療しているうちに面白くなってきました

医者のかかり方

―総合診療で困ったことはありませんか。

 外科から出発しましたが、離島経験を含めて、30年もやってきましたので、そんなに困ることはありません。今までに専門を極めたいと思った時期もありますが、今は総合診療を大事にしたいと思っています。

―医者にかかるときの心がまえを教えてください。

 例えば熱があるから風邪だろうと言ってきた患者にすぐ風邪薬をだすのではなく、頭痛がどこから来ているのか、医者は隠れた病気を見つけることが大事だと思う。  そのためには、患者は病歴や症状を、つまらないと思うことでも何でも話してください。定期的に医者にかかっていると何かあった時、変化が見えるので病気を発見しやすいです。かかりつけ医を作っておくといいですね。

*  *  *  くぬぎ山駅徒歩6分。もともとコンビニだったところが鎌ケ谷メディカルクリニックにかわった。広い駐車場が目につくのですぐわかる。鎌ケ谷総合病院当時の院長時代とはなんとなく雰囲気が違う。柔和な雰囲気だ。患者さんの声を聴こうとする優しい細い目に、すっかり話し込んでしまった。「ぼくの方も楽しかったです」のひと言に送られて病院を辞した。  高齢化してくると一つの病気というよりもあちらこちらに故障が生じ、何がどう悪いのか自分自身判断に困ることが多くなる。そんなとき総合的に判断してもらえる病院が地域にあるという事は心強い。さらに踏み込んで在宅診療が加わるのだからうれしい限りだ。
 趣味は空手(2段)。今でも八柱の道場で週2~3回練習し、八柱の桜まつりでは毎年演武を披露するという。  アメリカ生活の中で日本イコール空手のイメージが持たれていたので、いつかやりたいと思っていたそうだ。しかし外科医が腕をけがしたらまずいと我慢。30歳の時息子が生まれ、5歳の時一緒に始めた。今、大学3年生となり空手の手合わせができることを大きな喜びとしている。