『消えた縄文人』

文・鉄人28号
絵・サリーちゃん

 『市内に残る江戸時代の野馬土手について何か書いてえ。』前号の原稿を書き終えた頃、こう囁かれたような記憶がある。 でも、囁きの主が編集長だったか発行人なのか、記憶は抜け落ちたままでいた。 そして、そろそろだなと思っていたちょうどその時、机上の電話が鳴り響いたのであった。『明日までに書き上げてネ、徹夜してでもヨ。』

 さて、江戸時代といえばこの人に触れないわけにはいかない。徳川家康は、天文十一年(一五四二)十二月、松平広忠の長男として三河国岡崎で誕生した。童名は竹千代で、六歳の時に駿河の戦国大名今川義元の人質となった。弘治二年(一五五六)正月、義元の面前で元服した徳川二郎三郎元信と名乗った。この時義元は自ら加冠の役を引き受けたという。翌三年四月には松平蔵人元康と改名した。

 初陣は、永禄元年(一五五八)十七歳の時で、三河国寺部城主鈴木重教を攻め、降伏させた。 余波まさに戦国時代の時世で、はじめは今川方、次いで織田信長そして豊臣秀吉に属し、戦いに明け暮れながら戦国大名としての実力を備えていった。 名前を家康と改めたのは、永禄六年(一五六三)七月のことであった。
                
 天正一八年(一五九〇)、秀吉は相模国小田原城の北条氏直を攻め、氏直は和を乞い城を明け渡した。家康も秀吉に従い参戦し、戦勝後秀吉の命を受け、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃から関八州へ移され、同年八月朔日、武蔵国江戸城に入った。これがいわゆる「江戸御打ち入り」であり、関東入国あるいは関東入部と称される。この時点で家康は秀吉打倒を決意したという説もある。

 その後、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦で西軍を破り、天下の実権を把握した。 いずれにせよ江戸幕府は、来るべき決戦に備えて、軍事・輸送上できわめて重要な役割を担っていた馬を、安定的に確保するため、牧場の直接経営に乗り出したのである。 特に、房総の地は、古代以来牧が設定されていたといわれている。また、中世の千葉氏の軍事力の基礎の一つも、下総地方にあった牧場とされる伝統があった。一部では牛の飼育もみられたが、ほとんどが馬の産出する馬牧であった。 
 しかし、牧場といっても現在みられるような牧草地を棚などで囲って牛馬を人工的に育成するものではない。牧内の馬は放し飼いで、自ら水や食べ物を求めた。そのため、「野馬」とよばれていた。 牧場と村々の境には、堀を堀って土を積み上げ土手を築いたのである。馬が村内に入り込まないためであった。 私たちは、この土手のことを、「野馬土手」あるいは「野馬除土手」とよんでいる。

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