Cityかまがや87号
『小金中野牧と縄文人8.
文・鉄人28号 絵・サリーちゃん
 年に一度、奈良市で開催される同業者の寄り合いの合間を縫い、某寺院を訪れていたときのこと。  発行人から携帯電話で、数年前に特別史跡平城宮跡においてお怪我をされた、というお話を頂いた。  特別史跡といえば遺跡の「国宝」で、そこを舞台にして救急車のお世話になるとは、サ・ス・ガ………。

 さて、国宝とまではいきませんが、我がまちの国史跡に関連する牧士のお話を今回も続ける。
 また、以下に述べる内容は、鎌ケ谷市史中巻によるものである。

 享保期以降、現在の鎌ケ谷市・松戸市・柏市・白井市に広がる中野牧と、主に船橋市域に広がる下野牧の牧士は八名であった。  このうち、鎌ケ谷市域に3名の牧士がいたことが明和八年(一七七一)の史料により知られ、本誌の前々号で紹介したとおりである。  重複するが、3名の牧士とは、鎌ケ谷村の清田弥三郎・清田源蔵、中沢村の三橋瀬平である。

 天保十二年(一八四一)写の史料「野馬始より野方控」によると、清田源蔵家の先祖は古作村(現船橋市)の出身で、寛永六年(一六二九)に小金原の一部が開発されて成立した鎌ケ谷村に入植し、その後牧士になった。はじめは本家の勇右衛門が牧士を勤めていたが、病身であったので、分家の弟に役儀が引き継がれたという。
 一方、清田弥三郎の先祖は兵庫といい、寛永年中(一六二四〜四四)まで道野辺村に居住していた。古くから牧士役であったが、享保十二年(一七二七)に印旛郡白井橋本村(現白井市)の後藤兵四郎に牧士役が移された。ところが、兵四郎が病死したため、再び寛保年中(一七四一〜四四)に弥三郎へと牧士役が戻されたという。
 なお、両清田家とも、系譜や由緒書などが伝わっていないため、代々の系譜については不明である。
 中沢村の三橋家は、牧士たちを統轄する目付牧士であるが、弘化四年(一八四七)に七郎左衛門が、幕府に提出した由緒書が残されている。詳細は次号に譲りたい。