タウン情報誌 Cityかまがや89号
『小金中野牧と縄文人10
文・鉄人28号 絵・サリーちゃん
 前号、前々号で中野・下野牧の牧士「三橋家」・「清田家」について紹介した。彼らは在地の有力農民であるが、苗字・帯刀・乗馬・鉄砲所持という特権を幕府から与えられ、武士の格式を併せ持つ身分であったことから、厳しい規律に縛られていた。
 その心得を揚げると、1、平生から身持ちを良くし、礼儀正しく奉公を大切にし、不埒の沙汰がないようにすること 2、人足について、不参者や遅参者があった場合や、ルールを守らず不法・不埒があった場合は、厳しく対処すること  3、周辺の村々に対し、頼母子・無尽などを求めてはならないこと

 いやはや、武家とは窮屈な‥‥。  さて、広大な牧を牧士だけで管理することは到底不可能であった。そこで、牧周辺の村々は、牧(野)付きの村として、野馬土手の普請や野馬捕りの勢子人足など、牧や野馬の維持管理を負担していた。 時期にもよるが、中野牧では88前後の村があった。石高に応じて人足数が決められており、100石につき6人を出す決まりであった。
 市域の佐津間村(6人)・粟野村(5人)・軽井沢新田(5人)・中沢村(18人)・道野辺村(10人)など牧に隣接する村々は、「野附村」といわれ、特に関係が深かった。 なお、鎌ヶ谷村(4人)は下野牧に属する野附村であった。
 例えば、佐津間村では毎日2人ずつ、中沢村では毎日1人ずつ人足を出し、牧内の見回りを行った。 病気や怪我をした野馬を見つけた場合は、金ヶ作陣屋へ届け出ることが義務付けられていた。
 このことに関連して、文化八年(一八一一)に起きた「狼一件」という古文書が残されている。
 この年の2月頃の野廻りの際、狼(親2匹、子4匹)を若白毛村(現柏市沼南町)付近で発見したが、3月に至るまで牧士への届出がなく、咎めを受けた事件である。 1月から5月は野馬出生の時期にもかかわらず、野馬の大敵である狼について速やかに連絡をしなかったことが大問題とされた。
  この一件はまだ続く‥‥。