タウン情報誌 Cityかまがや 93号

『小金中野牧と縄文人』K   絵・サリーちゃん 文・鉄人28号

 これまで、およそ2年にわたり人と馬牧の歴史、徳川家康と下総牧、野馬奉行、牧士、野付村などについて触れてきた。 今号以降では、野馬や野馬捕りについて、当時の史料などを元にその実態に迫ってみようと思う。
 元禄十二年(一六九九)の古文書に『小金領中郷村々野馬御法度申渡帳』がある。それによると、@牧内へ勝手に土手等を造作してはいけないA野馬が村に入ったときは大事に戻し、危険な井戸などは埋めることBむやみに牧内に入り、野馬を驚かせないこと、などなどが記されている。

 これらのことから、次のようなことが推測される。
 まず、野馬は台地上で放し飼いにされ、半ば野生状態だったことから「野馬」と呼ばれていたこと。 通常は餌を与えられないため、牧に隣接する野付村(市域では佐津間村・粟野村・道野辺村・中沢村・鎌ケ谷村・軽井沢新田)に入り込み、農作物を食い荒らすこと がしばしばあったこと。 それを防ぐため、村方は土手(野馬除土手)を牧と村の境に造ったこと。ただし、野馬除土手は村内に作らなければならないこと。  それから、野馬は大事に扱わなければならないことが義務付けられていたこと::。

 さて、市域に残された野馬除土手であるが、野馬の侵入を防ぐためのものであるから大変堅固な構造となっている。通常は二重土手で、堀(野馬堀)を伴っている。 土手と堀を合わせた幅は12〜15m、土手の高さは約3m、堀の深さが2mほどあるので比高は5mとなる。このような野馬除土手が牧と村の境をぐるりと巡っていたのである。だが、それでも元気な野馬たちは里入りしたようである。 また、野馬除土手は、別名「自普請土手」ともいわれ、それに掛かる経費は村方の負担であった。 馬は、元来かわいい動物であるが、どうも牧周辺の村人にとって、野生的で自由気ままな野馬たちは、時にはチョット迷惑的な存在だったようである。