タウン情報誌 Cityかまがや95号

『小金中野牧と縄文人』14. 絵・サリーちゃん 文・鉄人28号

 さて、牧で野放し飼いされていた野馬は、多くの文人墨客によって叙述、描写された。今回は当時の資料を抜粋したので、牧の実景を想像して頂けたら幸いです。

 貞享四年(一六八七)八月、俳聖松尾芭蕉は『鹿島紀行』で、 「八幡という里を過ぐれば、かまがいの原と云う広き野あり。:遥かに見渡さるる筑波山、向こうに高く二峰並び立てり。:野の駒、処得顔に群れ歩りく、また哀れなり。」と記し、鎌ケ谷から見た筑波山や、野馬に興味を示したことが窺える。
 元禄一一年(一六九八)、安藤定為の『常陸帯』には、「:漸々行けば限りもしらぬ広野なり。:四十里野といふ名を得たり:野馬ども己がじじ草を喰み水を飲みて其性を得様、馬蹄の篇を絵にかきたらん心地ぞする。」
 寛政六年(一七九四)、加藤千蔭『香取の日記』には「鎌ケ谷宿を行きつくしていと広きあら野に出づ。ここかしこに駒どもあさり居り、遥かに鹿の群れ行くも見えていとめずらし。」とある。
 文化二年(一八〇五)のガイドブック『木曽路名所図会』では、「程なく釜ケ原てふ所に至れり。この野は廣々として、:野駒の五,六十ばかり、此野原に放たれて、何れも草をあさりて遊ぶさま、いとをかし。見るに親馬動けば、其子もそれにつれてゆき戯れる様、画にかくとも及ばし。江府を立てかく見るは又めずらし。」
 同じく文化年中の『遊暦雑記』では「日本に小金が原程の広大の平原有る事を聞かず。:さて此の原の中には野馬夥しく生じて、臥したるあり、駆けるあり、食するあり、狂い遊ぶもありて、:人を恐れず悠々然として逃げ去る馬なし。遠きに群れ遊ぶは犬の如くに見ゆ。:武城(江戸)の市中に産れし身は、いと面白く、又珍しく覚ゆ。』
 江戸で生活していた人々が、牧の風景に驚嘆したことが分かる。  絵画では、文政十二年、渡辺崋山が眼前に広がる野馬と牧の光景に心眼を奪われ、描いた「四洲真景 釜原」が、国の重要文化財としてあまりに有名である。