季刊タウン情報誌 Cityかまがや96号    『小金中野牧と縄文人』15. 絵・サリーちゃん 文・鉄人28号

 前号では、文人墨客の眼に映った野馬や牧の風景を紹介した。  彼らは、広大な牧の中を通過した折、間近に野馬の息吹に触れ、驚嘆の思いを紀行文に書き残した。

 そこで、すでに気付かれた読者も多いと思うが、牧内には木下街道や小金道といった主要路をはじめ、日常生活のための小道が幾筋も通り、村々をつないでいた。  つまり、牧は野馬除土手によって完全に閉鎖された空間ではなかった。牧(土手)と道の交差するところでは、通行のため土手が分断され、開口していたのである。

 その箇所は推定であるが、鎌ケ谷市域だけでも10以上に及ぶ。  これだけ隙間だらけでは、自由奔放な野馬たちを牧内に封じ込めることは到底出来ない。
 そこで、開口部には必ず木戸が設けられた。さらに、主要路の木戸には木戸番が置かれ、野馬の逃亡防止には万全を尽くした。  さて、前号で紹介した『遊暦雑記』(19世紀初め)にはかなり詳しく木戸の実態が描かれている。
 「・・原の入口東西共に番人有りて、路傍の左右に尺角の柱を建て、夜は件の柱に貫を通し、馬の逃げ出さざるやうにせり。…又是より北の方木卸の路筋は釜がやより白井迄二里余の間、皆小金が原の続きなれば小金が原を過ぐるの道筋幾百ある事しるべからず。…」  また、作者不明であるが『成田道の記』には、「…牧の原に出たり。入口の左右に土手を築き、大きなる柱を立て丸き穴二つを穿てり。夜は竹を通ノ馬の牧より出でざるやうになせり。…」とある。  これらの記述と絵図などから、木戸の様子を復元してみよう。  まず、左右から直線状に伸びる野馬除土手の両端を鉤形に曲げ、 枡形に組み合わせ、木戸口周辺を迷路状にする。土手(開口部)の両脇に柱を建て、上部に桁を渡す(神社の鳥居に似た形)。  少なくとも夜間は閂を架け、野馬の逃亡(里入り)を防いでいた。  それから、幕府の牧ではあったが、木戸の維持管理にかかる費用は、野付村々の負担であった。